前回は「都市」についてお話しました。
都市といえば、古代ギリシャのポリスが有名ですよね。
ポリスに住むギリシャ人は奴隷に労働をさせていたため、
物事を深く考える時間があり、
哲学が始まったと言われたりします。
また、ポリスは自然ではない人工的な世界なので、
神のような不可思議なものではなく、
人間の合理的思考による運営が求められたからだという説もあります。
以上のように諸説ありますが、
ギリシャにおいてすべての学問の始祖である哲学が始まりました。
さて、哲学のそもそもの始まりは、
「この世界はどのようにしてできているのだろうか」でした。
最初は火や水などのように、抽象的かつ体系的に考えていたのですが、
徐々に細かく分析していこうと、自然科学、社会科学、人文科学と分かれていきました。
自然科学は自然を対象にしたもので、生物学や物理学や医学などです。
社会科学は社会を対象としたもので、社会学や経済学や法学です。
最後に、人文科学は人間を対象としたもので、哲学、歴史学、心理学などがあります。
これらの学問は時代がくだる事にますます細分化され、研究されてきました。
経済学だけでも、マクロやミクロ、政治経済学などなど数しれずあります。
ところが、面白いことに、突き詰めていくと逆に、
その分野の枠からはみ出してしまうこともまたよくある事なのです。
たとえば、医学を突き詰めていった結果、尊厳死をどのように考えるかといったある種、
哲学めいたところを考えなければいけなくなったり、
遺伝学を突き詰めていった結果、周囲の環境の重要性に気づき、
社会学的な要素を考える必要が出てきたりといったようなことです。
だからこそ、幅広い知識が必要になるといえます。
研究者の世界では、
高い山になるためには裾野が広くなければならないと言われたりもします。
そもそも博士の「博」とは見識が広いという意味があり、
専門分野に特化していることだけを指すのではないのですね。
また、幅広い知識は専門分野そのものの進展にも役立つことがあります。
数学の難問とされるポアンカレ予想を解いたのが物理学の手法だったという話は有名ですね。
ほかにも、人間は利益を追い求める本能を持っていると考えていた経済学者が、
ある原始的な暮らしをしている人たちに農作物の生産量を上げる方法を教えたら、
以前よりも働かなくなったことに衝撃を受けたという話もあります。
彼は、原住民が1年間一生懸命働いて、
さらに生産量を増やすだろうと思っていたのですが、
原住民たちはらくして例年の生産量が取れると考えたのですね。
それで、彼は利益重視になったのは社会の仕組みのせいじゃないかと考えるようになったらしいです。
ところが、幅広く勉強すればするほど、何が正しいのかわからなくなったりもします。
どの専門分野も、自分がやっている分野を優位に考えがちだからです。
たとえば、男性、女性の趣味は遺伝的に決まっており、
生まれてまもない子供でも男の子は機械のおもちゃ、
女の子は人間の表情をよく見るという主張がある一方で、ある人類学者は、
男の子がおままごとをして、
女の子が暴力的な遊びをする部族がいるからそのような普遍的なものではないと主張したりもするのですね。
こうなってくると、結局なにを真理とみなすかはその人の「センス」だったりします。
正解がありそうな学問の世界でも、感性が重要なんですね。
そのせいか、学者は芸術家だというような人までいるほどです。
(芸術家の方は学問のような合理性を嫌う人が多いのを見ると、
なんだか学問からの一方的な片思いに見えますね。)
それでも少しでも納得のいく「真理」を選択するためには、
多くを学び考えるしかありません。
そこで選び取ったモノに対して、
もしかしたら多くの批判があるかもしれません。
それでも、ゲーテの言葉を借りれば、
「汝の道をゆけ、
そして人びとにはその言うに任せよ」とするほかないのでしょうね。
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