Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第十六回「神の誕生とSMの論理」

神は人間が生み出したものですが、

なぜその神にしたがってしまうのでしょうか。

わたしは、

それはSMの論理に近いものがあるのではないかと考えています。

たとえばここに、ムチでたたくものとたたかれるものがいるとします。

一見、たたくほうがSに見えますが、

もし、たたくほうが、たたかされていると思っていたらどうでしょうか。

一転して、たたいているほうがMになってしまい、

たたかれているほうがSになります。

どっちがSでどっちがMかは、本人にしかわからないのですね。

もしかしたら、どちらとも自分をMだと思い、

相手をSだと思っている可能性すらあります。

これだけだと、

SかMかは本人が決めることだというだけの話になります。

ところが、ここに10人の人間がいて、

そのなかの一人を女王様にしたとしましょう。

つまり、9人からSの属性を与えられるのですね。

すると、さきほどの話とは変わって、女王様は「Sの権化」として、

9人分の力を得ます。

実際に、命令をすれば従い、女王様として崇めたてられるのです。

たとえ女王様が内心自分は「M」なんだと思っていても、

Sとしての権力を実体として握ってしまっており、

名実ともに女王様となります。

さて、人間は属性を与えるということと、

複数人でひとつのものに属性を与えると

それそのものが力を得るという話をしました。

ところで、人はなぜ属性を与えるのでしょうか。

それは、人は矛盾する生き物だからです。

有名なものでは、エロス(生きたい)とタナトス(死にたい)があります。

人間は生きたいと思いながらも死にたいという

矛盾する気持ちを抱えているのですね。

それでは矛盾する属性をもっていると

なぜ与えるということをするのでしょうか。

ここで、神の誕生の話に戻しましょう。

どんな人間も、良いことをしたいと思う神性な気持ちと、

悪いことをしたいという悪魔的な気持ちの

どちらも備えているものです。

それなので、良い事をしようと思っても、

「自分は人を傷つけたりしてきたではないか、

そんな自分がいまさら良い事なんて偽善ではないだろうか」と

心にブレーキがかかってしまい、

その気持ちに没頭することができなくなります。

そこで、神性な属性を他に与える事によって、

純粋に神性な行為をできるようにするのです。

たとえば、路傍の石に神聖な属性を与えます。

この石は神聖そのものだから穢れてはいません。

だからこそ、この石に対しては純粋な気持ちで祈ることができます。

神社にいくと、自分への御利益だけでなく、

誰かの幸せを素直に祈れたりすることがあると思いますが、

それも同じ話です。

さて、個人で属性を与える分にはなんでもないのですが、

もし、その路傍の石に村人全員が

神性な属性を与えたらどうでしょうか。

その石はもう立派な「神」となり、権力をもちます。

だれかがその石をくだらないと蹴ったりしたら、

ほかの誰かから殺されかねません。

逆に、この「神」のもとに、村の神性がひとつになり、

文言化されて戒律ができたりします。

こうなったらさきほどのように神性なことをやるのに

ブレーキなどかかりません。

むしろ積極的に行わなければいけません。

そして、自分たちが生み出したものに、

自分たち自身が支配されてしまうのです。

キリスト教では人間が原罪を抱えているといいますが、

これも典型で、神(神性)-人(罪)という形で

属性を分けることによって、

罪人である人間が純粋に神への教えにしたがって

神性へ向かうことができるのですね。

この論理を矛盾の対象化といったり、

物神崇拝といったりします。

世の中には、自分たちで生み出したものに

支配されてしまうことはたくさんあります。

神がいなくなった現代では、

貨幣に支配されていると言われています。

たしかに、そのように聞くと

人間はなんて愚かな生き物なのだろうと思いもしますが、

逆に言えば、人間の心には神のような神性もあるということです。

神と悪魔、エロスとタナトス、SとM、

これらすべてが人間のなかに矛盾として備わっていると思うと、

わたしは人間の器のでかさに驚愕してしまうのです。