Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第七回「達磨と禅」

新年あけましておめでとうございます。

今年も、アーバンズ合同会社ともどもよろしくお願いします。

さて、私はといいますと、新年を迎えるにあたって、

群馬県の高崎達磨を手に入れてきました。

今年の祈願をしたいと思っています。

ところで、みなさんは達磨が、実は禅の始祖であることをご存じでしょうか。

今回は達磨についてお話したいと思います。

彼はインド人でありながら、西暦500年頃、

仏教が衰退しつつあった中国へと布教のためにやってきました。

梁国の武帝はその噂を聞きつけて、さっそく達磨と会合をし、問答をしたそうです。

武帝は仏教に熱心で、お寺をたくさん造立したりしていたので、

それらの件について達磨に意見を伺いました。

「私は多くの寺を多く建ててきたし、僧侶も育て、写経もしてきた。私の功徳はどのくらいのものだろうか?」と尋ねると、達磨は

「功徳はない」と言ったそうです。

そんな見返りを求めた行為に徳などないというのですね。

さらに武帝は

「仏教のもっとも聖なる肝要なところはどこでしょうか」と尋ねると、

「聖なるものなどこの世にはない」とまで言いました。

これには武帝も驚きました。

全てが聖なるものだというのならわかりますが、

聖なるものなどないというのは聞いたことがなかったからです。

そこで、ついこんなことを質問してしまいました。

「お前は何者だ」と。すると達磨は

「知らぬ」と答えました。

これには武帝も辟易としてしまい、達磨と打ち解けあうこともなく別れました。

達磨はその後、少林寺へと向かい、

そこの岩窟で9年間も座禅を組んでいたそうです。

その時にまとっていた布が、ダルマの赤い色だそうです。

さて、そんな彼のもとに、ある日、慧可という者が弟子入りしたいとやってきました。

ところが何を言っても振り向いてすらもらえません。

そこで、彼はついに自分の片腕を切り落とし投げつけました。

そこでようやく達磨は弟子入りを認めたそうです。

仏教の逸話を読んでいると、

このようなぶっ飛んだ話がかなりあってとても面白いです。

なぜ仏教にはこんなエピソードがありふれているのでしょうか。

実は、その答えが「聖なるものなどこの世にはない」ということなのです。

仏教では「何かに入れ込む」ことを苦しみの根源としています。

たとえば、映画を見て感動するのは、その映画に入り込んでいるから、

感情移入して、感動ができるのですよね。

もし悲しい映画をみて、いつまでもメソメソしている者がいたら、

あれはお前の人生ではないぞと言いたくなるかもしれませんよね。

実は仏教では、「私」そのものもそうだと考えるのです。

一般的にブログを書いている「私」は、

「私」の意識のもとに書いていると思っていますが、

本当の「私」は映画を見ている者と同じで、

それに干渉しているわけではなく、ただ認識しているにすぎないというのですね。

同じような問答を、達磨と慧可もしたことがありました。

慧可が「何年修行しても、自分の心は不安に満ちて醜いものです。どうしたら悟れるのでしょうか」と尋ねたところ、達磨は

「ならばその心を出してみろ!俺が棍棒でめっためたにうち叩いてやる!」といいました。

慧可はそれを聞いて、ハッとしたそうです。

心は出せない、つまりそんなものなどないのだと。

人間というのは、「言葉」という便利なものを発明しましたが、

その言葉によって概念規定したものに囚われてしまうということが多々あります。

悟るというのは、ある意味そのような概念からの解放とも言えるのです。

だからこそ、達磨は「聖なるものなどない」といったのですね。

「聖なるもの」というとどうしても私たちはそれが良いものだとして囚われてしまうからです。

言葉よりも実感すること。これが何もより重要なのですね。

最高知識責任者としては耳が痛いです。