東京オリンピックに向けて、
英語が話せる人材8万人ものボランティアを運営委員会は求めているそうです。
ところが、それだけの人材がいるのかということが問題に上がっています。
たしかに、日本人は少なくとも六年間、
英語を勉強しているのにまったく喋られるようにならないとよく言われますね。
かくいう私も、英語の教員免許を持っているにも関わらず、
自信を持って話せるとは言えません。
その理由は様々に言われていまして、
日本では文法ばかり勉強させるから、
リスニング力やスピーキング力が身につかないという主張や、
そもそも国内に日本人しかほとんどいないから、
使う機会があまりにも少ないせいだという声もあったりします。
近年では、海外に留学する若者も減ってきたようで、
楽天のような社内で英語を使うようにするといったようなグローバルな対応をする者がいる一方で、
英語はもう必要ないと考えている者も増えているのではないでしょうか。
たしかに英語を必要かどうかで考えた場合、
多くの日本人にとっては不要なものでしょう。
しかしながら、英語やほかの外国語を勉強する意味は、
役に立つからだけなのでしょうか。そのように考えたとき、
私はいつも大学のある講義を思い出します。
その時の講義は、「a friend whom I don’t like」という英文はありえないというものでした。
直訳すると、「私の好きではない友達」といったところでしょうか。
日本語では普通に使われる文章だと思います。
ところが、この英文はおかしいと先生は言うのです。
みなさんはおわかりでしょうか?
英英辞書を調べるとわかるのですが、「friend」の定義は「好きな人」なのです。
ですから、「好きではない友達」は矛盾した文章になってしまうのですね。
もしこのようなことを言いたい場合は、
「classmate」などの共同体の一員といったような単語を使うそうです。
それでは、日本語の「友達」はどういう意味なのでしょうか。
もちろん親しいという意味もあるのですが、
同じ共同体に属している対等な関係の人のことも指すそうです。
このように英語の「friend」と日本語の「友達」を比べてみると、
日本はいかに共同体に重きを置いているかが理解できると思います。
空気を読むといったような日本独特の同調圧力といったような文化的側面が、
実は「友達」という単語一つからも読み取れるのですね。
以上のように、外国語を学ぶということは、
実は自国のことを知ることにもつながるのです。
ゲーテは「外国語を知らないものは、母国のことすらわからない」と述べています。
このように常識だと思っていたことが自国だけのことだったのかと気づくことは、
思考の拡大にもつながるでしょう。
自戒を込めてですが、必要がないとしても、
外国語の勉強は続けていけるといいですね。
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