Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第二十回「オーラとはなにか」

優れた人間に対して、

この人は「オーラ」があるとよく言ったりしますよね。

そもそもこのオーラとはなんなのでしょうか。

もともとの語源はラテン語で、

「物体から発する微妙な雰囲気」のみを指すものでした。

このオーラの意味をより深く追求した人が、ベンヤミンです。

ベンヤミンはドイツ人で20世紀前半を生きた人でした。

この時代は、大量生産が軌道に乗り出した時代で、

チャップリンの『モダンタイムズ』のようによくもわるくも

工場による「レディメイド(既製品)」が問題となっていました。

とくに、「芸術」はその存在価値を問われました。

それは、どうしてでしょうか。

なぜなら「芸術作品」が複製され

大量生産できるようになったからです。

芸術作品が複製されたとしたら、

オリジナルとの差はなんだといえるでしょうか?

それを考えたのがベンヤミンでした。

そこで彼は、

もともとの「芸術作品」には「アウラ(オーラ)」があると考えたのです。

ではこのアウラとはなんなのでしょうか?

なんとここで彼は、それは「共同幻想」にすぎないとしたのです。

人は持って生まれた能力だけで「知覚」するわけではありません。

たとえば、「虹の色」は七色とされていますが、

じつは国によって2色だったり8色だったりします。

色の区別の知覚も文化によって異なるのですね。

ベンヤミンはその仕組みをさらに発展させ、

経験や歴史や伝統によって知覚は変化すると考えたのです。

かれはその総合的な感覚を「触覚的」と呼びました。

そのように考えると、芸術にあるアウラとは、

「歴史や伝統の積み重ねによってそれにしか宿らないと思う真正さ」

という共同幻想だといえそうですね。

きれいな絵画が荘厳な教会におかれ、

「あれはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品で、百年以上もあるんだよ」と

尊敬する神父さんに言われたら、

なんだかすごく神聖なものに見えますよね。

それがアウラだというのです。

ところが、封建時代が終わり、

芸術作品が美術館におかれるようになると、

そのような歴史や伝統から離れ始めてしまいました。

すると、ここにある「芸術作品」はなぜ「芸術作品」と言えるのか?

という疑問は当然でてきますよね。

ここに複製という時代背景が加わり、

より一層芸術にアウラが失われる結果となったというのです。

芸術に必要とされたアウラが失われたため、

芸術とはなにかがわからなくなり、

多くの解釈が生みだされていきました。

そのようななかで、

1917年にデュシャンが「泉」というタイトルで

便器を芸術作品として提出しました。

美術館におかれれば、トイレすら芸術品だというのですね。

たしかに、これは芸術史においては意味のあることでした。

ある意味、

芸術とは「新しい価値観」を提出することともいえるからです。

現に、その後、

アンディ・ウォーホルのような「商品を芸術化」してくるものも

たくさん出てきました。

ところが、このような型破りを行うようになっていったために、

現代芸術は理解できないという状況も生まれ出てしまいました。

また、「新しければ何でもいい」という風潮もでてきてしまい、

「アーティスト」と呼ばれる人たちが好き勝手するようになった

という指摘もあります。

たしかに、デュシャンは美術史を理解したうえで、

あえて便器を出したから価値があったわけで、

ただ新しいことをするだけでしたら、

それはある意味「デュシャンの後追い」になるだけ

だとも言えるでしょう。

いずれこのことについても書いていきたいと思います。

さて、少し脱線してしまいましたが、

芸術作品にアウラが失われてしまいました。

ところが、ベンヤミンはそれでもかまわないと主張しました。

なぜなら彼は、芸術は人間の「触覚」を育む力があるのだから、

アウラなどなくて気軽に見られる方がいいとしたからです。

気軽に見られ、それでいて成長もできる。

こんな素晴らしいことはないではないかと主張したのですね。

彼の芸術に対する愛が伝わってはきませんか?

最後に、彼のアウラの思想を援用して、

人間の「オーラ」も考えてみると、

それはこの人はすごいと思うことによる「幻想」かもしれませんね。

ただ、「気」という考え方など人間に関しては

まだまだ未知なところがあるので

簡単には結論づけることはできません。

また、歴史学的には、

「オーラ」などのようなスピリチュアルなことが流行るときは

社会が不安定な時だという指摘があるので、

あまり「オーラ」にとらわれるのもよくないことなのかもしれません。

ただ、多くの人が魅力的な人間、

または自分自身をすこしでも良い人間にしたいと考えていると思います。

その手がかりとして、私はこれからも考えていきたいと思っています。