Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第十九回「人はなぜ生きるのか――幸福主義」

人はなぜ生きるのか、

という問いについては古来よりさまざまな答えが示されてきました。

このブログでもそのいくつかを今後紹介していくつもりですが、

今回は「幸せになるため」ということについて考えてみたいと思います。

このいわゆる「幸福主義」は、ギリシャ時代から考えられてきました。

しかしながら、

それはおそらく現代人の思っているような「幸せ」とは異なります。

現代における「幸せ」とは「快楽」と同義になっていると思われます。

けれども、そのような快楽主義は古来より否定されてきました。

それは、快楽が基本的に外的要因に依存するため不安定なことと、

快楽には限界がないため、

最終的には得がたい快楽を求めることになり不幸になるからです。

お金や名誉はわかりやすい例でしょうが、

たとえば性に関しても、より良い相手を見つけたいと思ってしまえば、

そこには不幸への道が続いていると言えるでしょう。

ゆえにお釈迦様は欲を捨てることが苦から逃れられることだとしたのですね。

さらに、快楽主義の始祖とも言えるエピクロスですら、

そのような終わりのない快楽への追求は否定しました。

彼も適度な食に良い友達をもち、

心がいつも平穏になることを真の快楽とし、

人生の目的としたようです。

フロイトも似たようなことを述べています。

性による快楽も、じつは快感のために行うのではなく、

スッキリしたことにより心が平穏になることを目的にしているとしました。

それでは、

なぜ現代は不幸につながる「快感主義」が主流を占めるのでしょうか?

それは資本主義に原因があると思われます。

資本主義は「消費」をしてもらうことでまわるので、

人の快感を刺激して商品を売ることをします。

需要の喚起とでもいいましょうか。

さらに、資本主義社会では、

第三回で述べたように「自由で、平等」な個人が必要とされるため、

個人主義となります。

個人主義となると、

人生を宗教や国やイエのためではなく自分のために

つかいたいと思うようになります。

すると、

人生を少しでも「楽しい」ものにしたいという「楽しさ至上主義」と、

自己実現したいという「能力開発主義」となります。

たとえばよく「楽しんできてね」と言ったり

スポーツ選手が「勝ち負けより楽しみたいと思います」と言ったりしますが、

これは楽しいことを何より重視しているからです。

ところが、これらの考え方は「楽しくない」いまへの焦りとなり不幸になりがちです。

楽しくなければならないという義務になってしまうのですね。

それでは、なにが幸福といえるのでしょうか?

幸福論を考えたアリストテレスもアランもラッセルもストア派も活動を重視しています。

それぞれ厳密には異なることを言っているのですが、

私なりにまとめると、人間としての善をきちんと考え、

その善にしたがって実践していくことだとしています。

それでは善とはなんでしょうか?

社会的使命を見つけて自己以外のために活動し、

さらにそれが自分にとっても快感になり自己実現となることでしょう。

このように考えると、

私たちは幸せになるためには精神的な成長をしなければならないことになります。

とても難しく見えますが、決して不可能ではありません。

マズローという心理学者は、

人間の欲求は満たされていくとより高度なものへと代わり、

最終的には自己超越し社会のことを考える人間となると言っています。

また、エリクソンは人間が発達していくなかで、

成人期になると自分が生きた証を残したくなると言っています。

中年になると体が衰えて、

「死」がすこし近づいていることを実感するからかもしれません。

べつにそのようなことがなくても、

人間はそもそも自分だけが良ければそれでいいとはなかなか思えるものでもない生き物です。

大好きな人がいつも不幸そうなら、

なにかいい事があっても「幸せ」だとは言える人はすくないのではないでしょうか。

さいごに、わたしなりの幸福論を述べたいと思います。

まず単純に、原始時代を考えれば、

物質的な豊かさは幸福の条件にならないと言えそうです。

やはり「人を大事にし、

人に大事にされること」が第一条件であると思います。

つぎに重要なのは、「希望」を持つことです。

現代は絶望の時代だという人がいます。

ゆえに絶望に耐えうるタフネスが必要だという人もいます。

そのための処方箋の一つが「希望」だと思うのです。

アウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人も、

希望を持ったものは生き残り、絶望した人から死んでいったそうです。

そして最後に「自分で決められること」だと思います。

この自立は、すこし注意が必要です。

というのも自立は自分で決めなければならないという厳しさがあるからです。

そのため自立から逃走して依存へと向かう人もたくさんいます。

自立ができるためには、第一条件であるいつも見守っていてくれる人が必要です。

そして自立は、人間として成熟すればするほど重要なものになるとも思います。

なぜなら、自己超越は自立した人間が行えるものだからです。

まとめると、「人、希望、自立」が幸福の条件だといえそうです。

わたしは基本的には幸福を人生の目的とする

「幸福主義」には反対です。

たしかに哲学者たちのいう意味での幸福ならわかりますが、

言葉による弊害があまりにもでかいからです。

大切な人を大切にしましょうと言ったほうが

一番わかりやすいと思います。

それではなぜ人を大切にしなければならないのでしょうか。

ジョン・ダンの「誰がために鐘は鳴る」の詩を紹介して

結びにかえたいと思います。

だれも、それ自身完全な離れ小島ではない。

すべての人間は大陸の一部、本土の一部である。

もし土くれが海によって洗い流されると、ヨーロッパはそれだけ少なくなる。

それが岬であろうと、あなたの友人の領地であろうと、同じである。

いかなる人の死もまた、私を減少させる。

それゆえに、弔いの鐘が誰のために鳴っているのかを知るために

人をつかわす必要はない。

それはあなたのために、鳴っているのだ。