Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第二十三回「『コンビニ人間』の紹介」

前回、前々回と文化について話してきました。

今回は以上を踏まえたうえで、

2016年上半期芥川賞を受賞した『コンビニ人間』について書いていきたいとおもいます。

今回の作品は、

私が話してきた、

「小説は社会を表す」をわかりやすく体現した作品だと思います。

タイトルからも想像がつくとおり、コンビニで働き、

コンビニによって人格が形作られてきた人間の話です。

これだけ聞くと、よくある話に見えますよね。

古くはチャップリンの『モダンタイムス』でしょうか。

工場で流れ作業ばかりしている労働者が、

その作業の動き通りにしか動けなくなってしまう様をコミカルに描いた作品です。

しかし、この作品はこのようなテーマを現代風にアレンジしています。

主に登場する人たちは以下の三者です。

「常識」がわからないため、

コンビニの店員というマニュアルに沿って「常識」という服をまとうことにした自我の薄い主人公。

コンビニで30半ばまでフリーターでいる主人公を説教する「常識」のある人たち。

そんな「常識」によって社会からのけ者にされたと強烈な被害意識を持つ男。

そして、この三者が現代社会の気持ち悪さをうまく描き出しています。

たとえば、「常識」を持っている普通の人たちは、焼き鳥は食べるくせに、

道で死んでいる可愛い小鳥には涙を流すという矛盾を持っていながら、

このような感性を共感できない人たちを排除しようとする気持ち悪さがあります。

そのような「常識」を強制していることを批判する男は、

強いルサンチマンから文句ばかり言うくせに、

結局みんなに認められたいという欲求を持つ矛盾という気持ち悪さがあります。

そして、なにより主人公は、

人とは違った感性をもってしまっていることはわかっているものの、

どうやって「常識」を身につければいいのかわからないために、

店員というマニュアル=「常識」を身につけて生きていこうとする気持ち悪さがあります。

そう、この本の新しさは、

『モダンタイムス』によって批判されていた労働による人間の規格化を、

主人公が社会に溶け込むために自発的に行うというところにあるのです。

マクロ的な視点で言えば、

現代の先の見えなさの表れとも言えます。

チャップリンや日本で言えば白樺派のように、

資本主義による労働を批判するだけの時代は終わってしまいました。

それは、村上春樹の作風にもよく現れていると言われています。

「やれやれ、僕は○○した」という文体の印象があると思いますが、

このようなシラケた文章は、

学生運動の失敗以降に顕著に現れたそうです。

ところが、このようにシラケたりしてみても、

ルサンチマンの溜まる男のように、経済だけでなく、

社会からも排除されるだけでした。

一方で、現在では、感情労働と呼ばれる仕事が多くなってきました。

これは、もともとはCAの仕事を指していたのですが、

いまではファストフード店で、

いつも笑顔でいなければならない仕事などにも使われています。

つまり、私たちは仕事をする上で、

感情をも操作できなければならないのです。

それが、感性の違う人にとって社会に入るための手段でもあるというポジティブな側面も見出しているのです。

とはいえ、やはり付け焼刃でうまくはいかないのですが……

学問上でも、これらの議論が良くなされます。

資本主義自体は人々を縁ではなく円の関係にしてしまうのだから

共同体のあり方としてはよくないとする意見から、

この主人公のように、

縁というのは異質な人を排除する力もあるのだから、

ある程度は円の関係で適度な距離を保てた方が

多様な人間が生きやすくなるといったものです。

まさに、この本のテーゼではないでしょうか。

どの方面から見ても気持ち悪さの残る道しかありません。

もう、どうしたらいいのかわからない、

ぜんぶが不正解に見えてくる。

そんな現代社会の問題を浮き彫りにしているように私には見えました。

蛇足ですが、この気持ち悪さは、

石田徹也の「燃料補給のような食事」という絵にも似ています。

ぜひ検索してみてください。