Urbans ,LLC / アーバンズ合同会社

第十二回「歴史をどのように捉えるか」

歴史は暗記科目だと多くの人が思っているのではないでしょうか。

実際、大学受験を目安にしたカリキュラムを組まれている日本では、

暗記科目の類になってしまっているのも事実だと思います。

そのため、歴史は勉強をしても意味がないと思ったり、

逆に、坂本龍馬のような偉人を好きになったりして、

人物史としての歴史しか捉えない人もいます。

前者の主張はじつは歴史学においても

重要な論点になっていると思われます。

歴史に何の意味があるのか。

60年代中頃までは、歴史には法則性があると言われていました。

いわゆる唯物史観というものです。

唯物史観は、

生産力の発展とともに歴史は形を変えていくというものです。

その生産力の高さによって

ある程度その社会の構造も読み取れるとし、

その発展と社会の構造にある種の法則性を見出していました。

もし法則性があるのであれば、未来予測にも役立ことでしょう。

しかし、

唯物史観はその法則性が歴史の決定論のように受け止められ、

否定されるようになりました。

また、この発展という視点では、

アフリカのいわゆる未開の原住民は

歴史的に「遅れた」社会となるではないかと批判がされました。

もちろんそれは曲解だという意見もありますが、

歴史学では法則性があるのかどうかで

議論がなされているのが現状だと思います。

岡田英弘のように全くないという主張するものもいれば、

法則性とまではいわなくても、

一般性や教訓を得ることができるという人もいます。

たしかに、歴史が一回限りのものとみなす限り、

同じことは起こらないので、教訓とすることはできそうにありません。

けれども、E.H.カーは

「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」

であるとしました。よく歴史は現在からの投影だと言われます。

たとえば、

江戸時代の人たちは切腹などという自殺を

肯定的に捉えているのは命を粗末にしているというのは、

基本的人権の思想に染まった現代人からの投影です。

そのようななかで、

「なぜ、そのような観念が正当化されていたのだろう」と疑問に思い、

調べるのが歴史であるというのです。

たしかにそのように見れば、

現在の私たちがどのような思想を絶対視していたのかわかり、

思考の相対化に繋がりそうですね。

また、後者のほうは、クレオパトラの鼻があと1センチ低かったら、

歴史は変わっていたというのはその典型でしょう。

果たしてほんとうに

その人物の能力だけで歴史は作られているのでしょうか。

その人物がそのような選択をせざるをえない

社会的背景もあったのではないでしょうか。

じつは私は、

その社会的背景をまずはつかむことが

歴史を掴む第一歩なのではないかと考えています。

もっと言えば、経済からの視点です。

上記での唯物史観ですね。

現在の歴史学では、

これが歴史の決定要因だというものの定説がなくなってしまったため、

教科書ではあたりさわりのない

細かい用語の羅列になっているという面もあります。

たしかに正確なことを教えなければならない学校においては

それも仕方のないことだとは思います。

ただ、私は、唯物史観は歴史を一度大づかみするうえでは

これほどわかりやすい理論はないと思うのです。

大雑把にいえば、生産力の発展から西洋史を見るということですが、

一貫したわかりやすい流れなので、

すっと頭に入ると思います。

そして、大枠を掴んだあとに

最新の理論や細かい話を学んでいくのがいいのではないでしょうか。

歴史をただの暗記科目や英雄伝というエピソード集にしないためにも、

私たちはいまいちど歴史とはなにかを

考え直す必要があると思います。